Funatsu Masami

船津 昌美

合同会社エフプロト 代表 https://cymbalprint.me/ https://hitchhike.tokyo/

略歴

19歳でテキスタイル(プリント)の世界へ。図案制作中心のスタジオ勤務を5年経験後、素材の開発プロモーションのベンチャー企業に入社。プリント部隊のチーフとして、オリジナルテキスタイルブランドの企画を行う。
数年後独立しF/PLOT(https://hitchhike.tokyo/)を創業、現在22年目。2020年合同会社Cymbal(https://cymbalprint.me/)を設立、抗菌プリントの開発とそのMarketを開拓中。プリントにまつわる様々な事をなりわいとしています。

現在の仕事についた経緯

高校卒業と共に東洋美術学校短期グラフィック科に入学するも、当時の自分にはどうも違和感があり1年で中退しました。
ふと自分の着ていたプリントのワンピースに目を落としたその時に、誰がどうやって生地プリントの原画を描くのだろうかと素朴な疑問が生まれ、たまたま電車の中で遭遇した友人にポツリと呟くと、大学の友人のお姉様がそんな仕事をしているかもと。
駅の公衆電話からすぐさま電話をしてもらい、そのお姉様の紹介で次の週には大雪の中東京の八丁堀まで面接に行きました。(当時はスマホは無い時代です)
図案の制作を一から教えてもらいながら、微々たるお給料も頂ける事となって夢のような時間の始まりです。
入社したスタジオが3ヶ月後にプリント専門の生地問屋と業務提携となり、図案を描く仕事から営業担当者と共にアパレルへの御用聞きがはじまり、プリント工場との繋がりも出てきて、この世界にどんどん引き込まれていきました。
後から知ったことですが、学生を続けていれば最後の方にテキスタイルデザインの授業があったそうですので、奇跡的に一足早く現場に出ることに成功しました。
その友人にばったり合わなかったら、今この業界には存在していなかった事でしょう。(19~24歳)

仕事へのこだわり

25歳の時に転職しました。そこで今の自分が見い出されたと言っても過言ではありません。
前社退社後、別のプリント商社の担当者から仕事を依頼され原宿まで通うようになった頃、専務さんが大阪本社から見えて、たまたまお話しをする機会を頂きました。
ここぞとばかりに自分の思いの丈をお伝えしたところ、明日面接にこないかと連絡が。
これまで周囲の大人から、世の中はこんなもんだ、まだまだ若いから…といなされ続けてきた中で、半ば諦めかけていた時のことでした。

『私は、プリントは文化だと考えています!』
しかしながら現実は、図案家も工場も受身体質に成らざるを得ず卑屈に成って行く。これでは良いもの作りが出来ないし、夢も持てず担い手もいなくなってしまう。日本のプリントの未来はなくなってしまうのでは?と。
絵描きから工場担当者、営業までが一丸となってオリジナリティーを発信するカタチを作ってはどうか。そうやって作り上げたテキスタイルは必ず売れるはず!と伝えました。
5年間弱輩ながら精一杯やらせて頂いた中で感じた率直な想いでした。

昨日の勢いはどこへやら、かしこまって面接開始。
「あなたが言っていた事は粗方正しい、これから自身の考えをとことん追求してください。この会社にはプリントのオーソリティーがたくさんいるけど、誰の言うことも聞かないで突き進むのがあなたの仕事です!」と言う訳でその場で採用となりました。

そのことを通して逆にたくさんの方々と会話を持たせて頂きましたし、現場をもっと知りたくなり北陸の工場にも足繁く通いました。素晴らしい先輩方が各方面沢山いらっしゃいました。
自分の役割は何なのか、何のために存在しているのか?
図案家と工場、営業とその先のデザイナー、それぞれのセオリーは有るけれど、理解しあって変えていったほうが良いことも沢山ある。
自分がそれぞれの繋ぎ目になろうと決心したその頃、専務さんが、ある英国の原料メーカーより当時新しい天然繊維(TENCEL)の素材開発を依頼され会社を離れる事となり、それをきっかけに自身も移籍となりました。
当時は、繊維業界の流通革命とも言われ、経済誌も賑わすほどの勢い、4人でスタートした会社も数年後には工場の人員も含めて300人までとなりました。
しかしながら、様々な理由でバランスを崩し大倒産。
良きも悪しきも、凄まじい時代を経験させていただきました。

自分が味わわせて貰った物作りの楽しみや葛藤を自分より若い人たちにも伝えていきたいと、33歳で個人会社F/PLOT(テキスタイルプリントの企画会社)を設立しました。
絵を描くところから始まるプリントの世界、プリントは楽しく自由であるべきという考えのもと、美術部みたいなアトリエには、徐々に仲間が増え部活動のようなチーム(会社)が出来上がりました。
もちろん、メンバーは永遠ではないので入れ替わり立ち替わり…
それぞれの持ち味を最大限生かして、次々に新しいデザインを生みだし世に送り出す仕組みはその一時代にマッチし成功。
唯一無二のオリジナルストールブランドや自社のオリジナルデザインをUPCYCLEした一点物のTシャツブランドや、図案閲覧サイトの運営等、時代の流れとともに活動の仕方は変化しましたが、様々なトライをしながら現在に至ります。

コロナ禍の2020年4月のある日、元F/PLOTメンバーの一人がやってきて「一緒に抗菌プリントで縫製工場、プリント工場等を盛り上げませんか?」と言いました。
皆仕事がストップして、もう工場を閉めようかとの声が聞こえ出した頃でした。
勿論自分たちの会社も厳しい状況下、洋服を買うというのは二の次ですので、マーケットはストップ、取引先からのオーダーも激減。
早々に、横浜のプリント工場に車を飛ばして頼み込み、4ヶ月後に別会社を立上げ、Cymbal Printというブランドも始めました。
こちらは加工の安定の為のウォーミングアップと、一般の方に抗菌プリントを体感していただく為の手段として存在しています。
加工も大分安定した昨今、アパレルとは他分野(医療系、スポーツ系、インテリア系、キッズベビー、ペット系等)に向けて抗菌プリント自体をブランド化、絶賛プロモーション中です。
長年追求してきた色柄に抗菌性をプラスし、『ワクワクと安心』を追求すると言う新たなプリントの可能性を追求しています。
そして、本社のある山梨県甲斐市の標高1200mの山中、ノースランドを舞台に、年二回継続的にCymbal Market(マルシェ)を開催。この場を通して、多くの人が集う場をつくって行ければと思います。
第何フレーズかわかりませんが、まだまだプリントの物語が続きそうです。

若者へのメッセージ

全てのことに意味が有って、無駄な事なんて何一つ有りませんね。
いずれ全ては繋がって輪に近づいていくのだから。

何事も決めてかからない。
まずは掘り下げてなんぼ、伝えてなんぼ、繋がってなんぼ…
やってみて違和感だったらまた考えて、方向を微調整すれば良いしそれは失敗では無いから。

それがどんなで有ったにせよ、自分の根っこの部分や役割を真正面から受け止めて、答えは一つでは無いのだし、自分だからできた目の前の道を歩んで欲しいです。
その先に面白おかしい人生がきっと待っているはず。

埼玉の片田舎で造園業を営む親方気質の父と、辛抱強く実は一番気が強い母の元で、沢山の職人さん達も含む大家族で育ちました。
父の趣味で犬も20匹ほど、何に付けても極端な人でした。
4人姉弟の次女、妹は障害を持って生まれてきました。
何につけても普通通りが出来ませんから常に一緒、そんな中で自分流の考えや在り方みたいなものが子供なりに出来上がっていた気がします。
母は数年かけて、地元の同じ境遇の親達を募って、行政と掛け合い認可の障害者施設をつくり上げました。
これが私の根っこです。